以下は哲学者、ジャン=ポール・サルトルさんの言葉だよ
社会の一員である以上、避けられない言葉
地獄、それは他人である
哲学なお話しなので、あなたはどう思いますか?のお話しをしますね
物事の ”本質” について考えてみると、
一般的にあなたが使用している物ってあるじゃないですか
紙やボールペン、日常品、雑貨などです
これらは製作者側、あるいは使用する側が「こうあるべきモノ」として生み出し、または使用するのです
簡単に言うとペンとは書くもの、使いやすいモノ、見た目がいいモノ、などで、これがペンの本質になるワケです
(※これを、即自存在、と哲学ではいいます。)
この場合、ペンは生まれる前から本質があることになります。
ではここで質問です。人間の場合はどうでしょう??
人の本質は生まれる前からあるのか?それとも生まれた後に本質が出来るのか
ここに答えは無いのでサラッと流してもらってもいいですよ(笑)
神様と呼ばれる方がおられるのであれば、人の本質は生まれる前から決まっているかもしれませんし、
そういった方がおられないのであれば、人の本質は生まれた後に決まるのかもしれません。
(※本質が決まっていない状態を、対自存在、と哲学ではいいます)
もし後者であった場合、人の本質は生まれる前ではなく生まれた後にある、ということになります。
さて、ここからが本題なのですが先の言う、人の本質が前にあるのか後にあるのかは別にしといてですね、
あなたは今、疑似的な即自存在になっています。
それが ”他人の評価” ”周りの目” です。ここでいう他人とは自分以外の全ての人間です。なので親や子も他人です。
つまりあなたの周りの人間が、あなたはこうあるべき、という本質を押し付けてくるワケです。
そしてそれに応えるあなたがいるワケです。
だから ”地獄、それは他人である” なのです。
自主的に動いているつもりでも、実は他人に押し付けられ動かされているかもしれません
人が周りの目を気にするのは一種の病気なのかもしれませんね
ちなみにサルトルさんは、惰性や多忙を言い訳に組織の部品になり下がったり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化したり、自分を持たず決断を回避する生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。
能動的に生きるのか受動的に生きるのか
他人から与えられた即自存在を自分だと勘違いしないようにしないといけませんね
最初にあなたの本質に関わる他人から受ける行為が親の名づけですね
日本人は特に人の目を気にする傾向のある種族
もともと集団生活を主とした民族なので、相手の立場に立った精神というのが日本では当たり前のように根付いています
・思いやり
・気の毒
・かわいそう
・気が利く
・気配り
・心遣い
・お世辞
・遠慮 など
他人の立場に立った行動を示す言葉がたくさんありますよね
だから和を乱したり、人と違う事をすると目立つので自粛するようになってしまうんですね
確かに美点なのですが、これが悪い方向へ向くと足の引っ張り合いをしだします。
良い点、悪い点を知っておくといいかもしれません
嫌なのは行為ではなく、周りの反応だったりする
日本の海岸で裸になると犯罪ですが、海外のヌーディストビーチだと犯罪ではありません。
むしろヌーディストビーチで水着を着ている方が恥ずかしいかもしれません。
まぁヌーディストビーチへ私は行ったことがないのでイメージで話しましたが、要は周りの反応で自分の行為が変わるという事です。
確かに自分が育った生活が常識になり、何か異文化的なモノに触れた時に ”嫌だ” という反応を示すかもしれませんが、あなたの常識がそこでは非常識であったのならば、あなたは次第に非常識へ染まるかもしれないのです。
なぜならそこでのあなたの常識は非難されるからです。
これは一例にすぎませんが、
究極、あなたのイヤは周りの反応がそうだから、かもしれないということです。
いかがでしたか??究極あなたのイヤの正体は周りの反応だったりするのです。これは意識してみないと気づかないモノですし、意識していても陥りやすいことなのです
結局、夢や目標に向けて邪魔をしてくるのは他人です。他人のせいにして後悔するか否かはあなた次第ってことです。前者を選んだならば文句は言ってはいけません。後者を選ぶなら他人など気にするなというお話しになります(笑)